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「鱗の輝き」-料理長の昭和日記 【昭和36年10月20日】

今月、来月は行楽シーズンで連日忙しい。普段は団体で土日は家族連れやアベックで満員の日がずっと続いている。和歌山と三重の全線開通が2年間にされ紀勢線がブームになっているらしい。しかしこんな遠くまでよくも毎日々々客が来るものだ。おそらく12月に入るまで休みはくれないだろう。
「喫茶パリ」でコーヒーを飲んで過ごすぐらいで本当に真面目な毎日だ。まだまだ仕事についていくだけで精一杯だから。
トキさんに小包の礼状を書く。給料が上がったので下着やタバコは自分で買えるし、金がかかるので送ってくれなくてもいいのに・・・。「涙が出るほど嬉しいが貯金して欲しい」と書く。

大阪時代の最初の正月のことは忘れられない思い出だ。家を出て初めての正月休みに金もなく行くところがないので、誰もいないはずの店のほうに行った。炊事場に電気がついている。
「トキさんだ」
「兄ちゃん、お腹空いたやろ?ちょっと待ちや」
ニコッと笑って「お見通しやで!」
皆が田舎に帰ってしまって、たった一人で寮にいても、腹を空かして必ず店に来るだろうと、彼女には分かっていたらしい。
田舎は九州だと聞いていたが、あえて彼女には何も聞かなかった。「兄ちゃん、あんたはなあ、他の子と何処ぞが違うんや。ええ職人さんになりや。きっとなれる子や」

ここ数年の間、両親にも他人からも褒められたり期待されたこともなかったので、トキさんの言葉がとても新鮮だった。うそのない目で真剣に言ってくれるので、「信じてみよう」と思った。あの頃の自分にはそれしか支えになるものがなかった。お世辞の似合わない人が云ってくれた一言が人生を変えてくれるかもしれないと。

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